フランシウム87

南フランスに住む日本人学生が発信するブログ。

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それって差別??世界では”差異”をどう捉えているんだろう?

最近フランスにいて、何かと「差別」という言葉を聞くことが多くなったなぁと思います。それは人種差別(racisme)であったり性差別(sexisme)であったり。

様々な人種が存在するフランスでは、頻繁に「それは人種差別的な発言だ」なんて声が上がることがあります。日本では人種差別という言葉をあまり聞いてこなかったので、いまだにフランスでこの言葉を聞くとビクッとしてしまいます。

 

しかし、彼らのいう「差別」と、僕の考えている「差別」は、同じ意味合いとして使われているのでしょうか。そもそも差別って何なんだろう。差別という意識はどこから生まれてくるんだろう…?

 

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友人の体験

先日、友人からこんな話がありました。

彼がジムでトレーニングをしていると、彼よりも小柄な女性が彼がもち上げられないような思いウェイトを持ち上げていたのだそうです。それを見て彼は「わぁすごいなぁ!彼女は女性なのにあんなに重たいものを持ち上げてるよ!」と言ったのだそうです。すると隣にいた彼女が、「それは性差別的な発言よ。」と諫めたのだそう。。。

 

このエピソードを聞いて、あなたはどう思うでしょうか。

確かに一般的に女性と男性では筋肉の付き方など、体の構造が大きく変わります。生物学的に言って、男性は女性よりも運動に適した体に発達していますし、力も男性の方が相対的に見て強い傾向にあるでしょう。

 

他にもこんな例が想像できます。

料理が上手な男性に「男の人なのに料理が上手いですね!」と言ったり、活発な女の子に「女の子なのに木登りが上手ねぇ」と言ったり。どうでしょう?こういう発言は日常生活のいたるところで耳にしますよね。

 

しかし、彼の彼女はそれを「性差別的」だと言ったのです。

こちらも確かに、「女性だって男性と同じように重たいもの持ちあげることができる」という、男女平等の観点から言えば頷けます。

 

…どちらも一理あるような無いような。。。

それにしても両方の視点から考えるのは大変ですよね。

差別について考えるのは、こんなに大変なことなのでしょうか?

 

差別という言葉が先か、行動が先か

 

以前、別の友人がこんなことを言いました。

「人種差別って、その言葉自体が無かったら差別の感情がわかないんじゃないか?」と。つまり、人種差別という言葉を知ることによって、人種差別的な感情が生まれるのではないかと考えたのです。

 

僕は、これは近代哲学で言うところの言語論的転回だと思いました。

言語論的転回について、wikipediaではこのように説明しています。

 

言語が現実を構成するという考え方は、言語を事物のラベルのように見なす西洋哲学の伝統や常識の主流に反していた。たとえば、ここで言う伝統的な考え方では、まず最初に、実際のいすのようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照するいすという意味があると考える。しかし、「いす」と「いす」以外の言葉(「つくえ」でも何でもいい)との差異を知らなければ、私たちは、いすがいすであると認識できないだろう。以上のようにフェルディナン・ド・ソシュールによれば、言語の意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味の差異は私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである。

 

ちょっと難しいですが、言葉が物事を決定しているという事。

話を戻すと、差別という言葉があることで差別問認識が作られるのだと思います。その友人は保育の経験もあり、その時に黒人の人と握手した子供は、自分の手を見てまるで泥を落とすかのようにパッパツと手を払ったのだそうです(子供からすると、本当にその人の手は泥かススで黒くなっていたと思ったのだそうです)。同じことを大人がやったら人種差別だと言って問題になります。人種差別という言葉をまだ知らない子供の行動は、ある種の本能的なものだと言えます。この子供は、人種差別という意識がないにもかかわらず、このような行動をとったわけです。

 

どこから差別という概念が作られるのでしょか。

僕は教育が差別意識を作り上げるものだと思っています。教育と言っても学校教育だけでなく、家庭内での教育や社会の中での教育など、全てです。家族との食事中の会話や、テレビを見て得る情報もすべて教育の一つとします。そうして、一人の人間として日本で普通に生活していることで、自動的に教育を受けて、差別という概念が作りあげられているのではないでしょうか。

 

となると、この教育が世界のどの国でも同じ内容のものでなければ、当然差別という概念にもばらつきが出るということになります。実際、日本人の考える差別と、他の国で考えられる差別には違いがあるように思えます。

 

勝間和代の言葉

 

日本でどれだけ話題になっているかわかりませんが、経済評論家の勝間和代さんがが自身のセクシャリティを公表したことがニュースになっていました。メディアはジェンダー後進国の日本で勇気ある行動だとか、彼女のとった行動にポジティブな意見を寄せています。が、当の勝間さん自身はある番組の中で「テレビ局や新聞も報道すること自体、本当は苦しいんですよ」と言っています。また、この公表の後に何人かの人が彼女に「自分は(自身のセクシャリティの公表を)言えないけど、あなたは言えて凄い」と言って来たそうです。これに対して勝間さんは「凄い事ではないんですよ」と、涙で震える声で言っています。

ここから、日本ではLGBTだとかセクシャルマイノリティーと言われているような存在が、まだまだ特別視されている現状が伺えます。もちろん、海外の(西欧の)国々でもマイノリティーであるという捉え方をされることはありますが、日本ほどではありません。

 

これも偏に教育がもたらす結果なのではないでしょうか。

西欧の国々の若者たち(いわゆるジェネレーションY、80-9年代に生まれた人たち)が子供の頃には、既にヨーロッパにはいくつもの同性婚を認める国が存在していました。それらの世代が大きくなり、SNSを利用しだしたころから、西欧では急速にジェンダーマイノリティーの自由化が始まっています。例えば、スペインは2005年に世界で3番目に同性婚を法律で認めましたが、その年に生まれた子供は、この記事を書いてる時点で13歳になり、もう立派にSNSを扱う年頃になっているのです。生まれた時から同性婚が基本となっている世代が、すでにいるのです。

日本では最近になってLGBTパレードが話題になっていますが、ヨーロッパではそれ系のパレードは時代錯誤だと捉える若者も少なくありません。なぜなら、そういう人たちが社会に存在することが"当たり前"なんだから、別に誇示する必要がなくなってきたと言うのです。

 

このことを念頭に置くと、冒頭の2人の会話で出てきた性差別だという忠言は、男女平等のフィールドという前提のほかに、様々な人がいて当然という、新たな世代観が存在していると理解することができます。これは、近年日本でよく使われていたダイバーシティという言葉ですね。ダイバーシティの考えにもジェネレーションギャップがあるんですね…

 

日本は人種差別の国?

 

フランスでは最近「差別」という言葉をよく聞くようになったと冒頭で書きました。言葉が存在しているから差別という感情が生まれてきているのだと仮定すると、「人種差別」という言葉があまり聞かれない日本は人種差別からは遠い国であることになります。

でも、実際は違いますよね。日本は特に人種を気にする国の一つです。それは、恐らく島国で長らく他の国との交流がなかったことが原因となっているのかもしれません。しかし、その仮説に逃げてしまってはいけません。否が応でもグローバリゼーションは日本を飲み込んでゆくのですから、いつまでも人種を気にしていてはいけないのです。

 

さて、僕が「日本は人種差別的な国だ。」と言ったら、多くの日本人は「そんなことはない!外国人に対して差別なんてしていない!」と反発すると思います。僕も、実は日本はそこまで人種差別的な国だとは思っていません。(反対に外国人にやさしい国だとも思っていませんが。。。)

しかし、残念ながら世界から日本は人種差別的な国であると見られています。なぜでしょう?

 

僕は、ここには言葉のトリックがあるのだと考えています。

ここから少しフランス語の話になります。フランス語で人種差別はracismeと言います。それに似た言葉にxénophobieという言葉があることをご存知でしょうか。

xénophobieという言葉を手元にある仏和辞書で引いてみると、「外国人嫌い」という意味が出ます。~phobieの様に単語の末尾にくる部分を接尾辞(suffixe)といい、これは「(生理的な)嫌悪」を意味します。他にも、同性愛者嫌いはhomophobieですし、閉所恐怖症はclaustrophobieです。claustroというのは、英語で言うところのclose(閉じる)です。claustroの類語としては、closがあります。周りを柵で囲って締め出したブドウ園の事を指します。この単語は両側を見渡す限りのブドウ畑が広がる南仏の国道を突っ走っているとよく目に入ります。他には、修道院の回廊を意味するcloîtreも、同じように外の世界から隔絶された閉ざされた空間という意味合いで使われます。

 

閑話休題

フランスをはじめとする、多くの民族が混在する文化を持つ国々では、おそらく幼い頃から人種差別という単語を耳にしているのでしょう。だから、日本を見た時も「人種差別的な国だ」という一言で片づけられてしまうのです。

しかし本当にそうでしょうか。僕は日本は人種差別の国ではなく、どちらかというと外国人嫌い、つまりxénophobieの国であるように思うのです。1853年、黒船に乗ってペリーが「開国してくださいよぉ~」と迫ってきたときの徳川幕府の心境となんら変わりません。外国語をうまく操ることのできない日本人は未だに外国の事を知らず、おびえているのです。

温泉で外国人が入ってくると、日本人はじろじろ見てきて気分が悪いという話はよく聞きます。外国人からするとこれは「人種差別的だ」という考えに収まってしまうのですが、本当は違いますよね。日本人は気になって見てしまうのです。誤解を恐れずに言えば、日本人集団という均質、且つ多数派の中に入ってきた、一種の「異種」を外国人をとすると、その「異種」を排除したいがために見ているのではなく、その違いを知らないことが原因となって見てしまうだけなのです。

 

フランス語を勉強している人は、このLe Mondeの記事に目を通すことをお勧めします。フランス人相手にracismeとxénophobieの違いを説明することができたら、評価が上がること間違いなし。

www.lemonde.fr

 

 

世界の大きなうねりの中で

 

僕たちのいる世界は常に流動的です。昔当たり前だったことが今では常識外れになっているという事はよくある話です。

例えば、現在では発がん性があるとして一般に使用することが禁止されている放射性物質ラドン。これは20世紀初頭のドイツでは健康に良い物質だと信じられていて、なんとミネラルウォーターに入れて飲まれていたのだそう!今考えると常識外れも良いところです。

反対に、昔は一般的じゃなかったことが今では一般的になっていることもあります。

 

人種というのは古くから存在していたのでしょうが、それらがお互いに人種の違いを認識し始めた、いったいいつからなのでしょうか。朝鮮民族という一つの民族は、時代のうねりの中で北朝鮮と韓国に分断され、いまでは国際社会から2つの異なる国民として扱われています。日本では江戸時代に、西洋でも古くは同性愛というのはごく一般的なものでした。それが世に公言するのが憚られるようなものになったのは、なぜでしょうか。

 

僕は、この根底にあるのが教育だと思います。

教わってしまったから身についてしまった価値観と、教わらなかったから身につかなかった価値観の間で、僕たちは悩むのです。そして、この価値観の違いというのは海外に出てみないとわからないことです。だから、僕は海外に留学することを強く勧めているのです。

この価値観の違いと言うのもややこしいもので、「価値観の違いが原因でぇー」といって別れるカップルを想像すれば何となくわかると思います。国ごとの教育の違いからくる価値観の違いもあれば、変わりゆく世界の大きなうねりのなかで作られる価値観の違いもあるのですから。

 

おわりに

 

僕は、差別という言葉の問題性を解決するのは、実はとっても簡単だと思っています。それは、差別という言葉が無いものであると認知すること。誤解して欲しくないのですが、差別が原因で起きている問題を無視するべきだと言っているわけではありません。これからの時代・世代は、良い意味で差異について疎くなってくると思います。差別という言葉との関係が薄まれば薄まるほど、人は自然と差別をしなくなるのではないでしょうか。パリで女性同士が手をつないで歩いていたり、男性同士がキスしているのを見ても、それが当たり前であると心から認知すればいいだけの話です。「差異」について、もっと無関心になるべき日が近づいているのでしょう^^